ちかくの公園
今回は、GoogleMapには載っていない、ちかくの公園に探検に行った。
場所は想像にお任せする。
そう。君の頭の中にある、その場所で間違いはない。
よろしく。
日付だけは覚えている。4月21日の夜の底。
俺たちはちかくの公園にいた。
その公園は、木々が生い茂っている。
空中をお魚さんが泳いでいる。
固そうな岩の破片が落ちていると思い、手に取るとそれは牡蠣だった。
何を言っているかわからないって?
そンなミスマッチな現実が本当にそこにはあったんだ。
とりあえず、低空飛行している魚を捕まえて食べることにした。
手を伸ばす。川の水の中に手を突っ込んで手探りで泳ぐ魚を捉えるように、空中の気配に向かって手を伸ばす。
よりリアルに想像すると、本物により近い魚が手の中にあった。
川の水で袖口が濡れていることも想像した。
生で食べるのは危険なので、袖口を乾かすことも念頭に置いて焚き火をすることに。
公園に落ちている乾いた木をかき集め、いつも持っているライターで火を灯す。
木々たちは燃え、真っ赤な色に染まり、木々の中にわずかに残っていた水分が水蒸気となってモワモワ漂っている。
そんな気がした。
丈夫そうな気の枝の先をナイフで丁寧に研ぎ、串を作る。
魚の口からそれをぶっ刺す。
焼く。
想像通りの光景が目の前に広がる。
しかし、初めて体験したことでもあった。
魚が水面から体をひねって飛び上がっているようにも見える。
確かに目で見ていたその光景を頼りに、今、想像の中で文章にしている。
記憶とはそういうものなのかもしれない。
体で知覚した感覚を原材料に、思い出す行為。
それをどう解釈するかで思い出が変わる。
感情が呼び起こされる。
全てが解釈になっていく。
幸福も不幸も、その人間の解釈次第だ。
このちかくの公園も、君の知覚したことがある公園に置き換えられる。
知覚の公園に変わる。
人それぞれ、知覚している世界がある。解釈している世界がある。
同じように見ているつもりが、全く違う解釈の中に存在する。
俺たちは、生まれた瞬間から分かり合うために言葉に意味を託し接し合う。その意味は、光や音、その他諸々の体感と関連づけられていく。
硬い。という記号と語感は、手で触れたカタイとマッチしていく。
それが当たり前かのように、硬くなっていく。
硬い。うん。硬い。見た目も硬そうに見えてくる。
カタイって音も硬そうだ。なんだか角ばっててぶつけると痛そうだ。
そんなことを思っていると、さっきの牡蠣が脳内によりリアルに現れる。
とともに、手に持っていた。
もう君の想像にお任せする。写真はない。
腹も満たされ、キャンプ感も味わい満足した。基地に戻ることに。
今更だが、同行者はH氏。
春のせいか気の触れた記事になったかもしれない。
なぜこうなったか。
H氏が、春の悪魔に左腕を引っ張られたからである。
彼は、生きている。しかし死にかけた。
俺が見たとき、彼はうずくまっていた。左腕を抑えながら。
その肘から流れ出るは血。
その瞬間の記憶はないという。知覚したのに思い出せないらしい。
そんな思い出もあるらしい。
しかし、その体感は左腕から流れる血にしっかり刻まれているだろう。
痛いという感覚とともに。
幸か不幸か、彼は新たな知覚世界のドアをノックした。
こじ開けた。放り投げられたとも言える。
それが彼独自の言葉になり、人生になる。考え方も変わっただろう。
数秒後に何が起こるかわからない。改めてそう感じた今回の冒険。
この世に生きる人間が偶然に遭遇し、秒単位でジャストミートする。
インターネットを眺めているだけで冒険したつもりになっているそこのキミ。
新たな世界のドアをノックしに冒険に出発しよう。
今を味わえるのは、その体を持った君だけだ。
言葉にされているものだけが世界じゃない。
言葉から、意味から、零れ落ちていく知覚をかき集めよう。
それがキラキラ光る宝物になるかもね〜
別に自由だけどね〜