関西自然探検録

関西の自然を体感した記録

和歌山の星

今回の探検の地はここ↓↓

 

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同行者は、H氏で車はH氏のものだった。

赤い楕円で囲んであるあたりを車でうろうろした。

熊野古道にも行ったので、もう少し広い範囲かもしれない。

なぜ記憶が曖昧かというと、去年(2019年)の夏に訪れたからだ。

正確な日付は、2019年8月11日だ。

 

こんなに、曖昧な記憶で探検録を書き進めていって大丈夫か?と思うだろう。

正確な場所や、日付など覚えていないが脳味噌に焼き付いて離れないものがある。

それは、深夜2時ごろに降り立った、和歌山の海辺で見あげた空に浮かぶ星だ。

本当に綺麗だった。脳味噌にこびり付くその映像を順を追って回想しよう。

 

その日は偶然、雲もない快晴の空だった。

まず、車を海岸付近に何気なく止める。

街灯や街の明かりなどほとんどなく、夜の闇が景色を覆っていた。

静かな海岸線、打ち寄せる波の音だけが聞こえている。

なぜ車を停めたかというと、海が見えたからだ。

「ちょっと、休憩するか。」と、車のドアを開け澄み切った空気の中、何の気なしに伸びをし空を見上げる。

、、、、ん?えーーーーーーーーーーーー!!!やばい。嘘やろ。怖い怖い。と言葉にならない語彙力なしの感情が喉を震わせ噴出した。

俺は、一つ一つが強く輝く星々の中に立っていた。

この日本の和歌山県から見える星全てが、何億光年の距離を感じさせない身近さで俺たちを取り囲んでいた。

本物の自然に対峙した時、過剰すぎて逆に作り物っぽいという反転した感情が生まれるんだなと思った。

 

都市の電灯による灯りが、俺たちの生活に近すぎてその後ろにある星の光がこんなにも見えずらくなっているんだな。

 

星は思えば、過去の光。

その星が今、存在していないとしても光は俺たちの今に存在する。

星との距離が遠いからこそ、地球にいる俺たちが綺麗だなと眺めることができる。

 

例えば、無口な職人がいるとする。

その職人が自分の追い求める美しさを表現した作品を生み出す。

現代の俺たちには、その作品が奇妙なものに映るかもしれない。

でも、物として残されたその職人の内面の星が何百年後の人に美しいと眺められるかもしれない。

無口な職人は、いわゆる"会話する"というコミュニケーションではなく、言葉にできない方法で、いやむしろ内面から溢れ出る言葉の濁流に溺れかけながら日々を生きているのかもしれない。

考えていることにぴったりと当てはまる言葉は、あれでも無いこれでも無いと考えているうちに目の前の時間が過ぎていくというように。

 

ヒトそれぞれに、時間感覚が違う。

時計による時間が一般的なので、みな平等に時間が流れていると思ってしまう。

しかし、わかりやすいところで言えばヒトそれぞれで寿命が違う。

体年齢なるものがあるが、歳をとっても若い人がいる。

つまり、残された時間も違うし長い時間生きても若い人もいる。

あなたの10年は、俺にとっての1日だということもあるかもしれない。

太陽が昇って、沈むのが1日なら白夜が続く南極ならしばらく1日が終わらない。

地球の自転の一周は明確な一日を示す。

もし地球が回っていなければ、どのような時間が流れていたのだろう。

と様々な、不思議が俺を混乱させる。

 

そういえば、最近1日がずっと続いているような感覚に襲われたことがある。

俺の1時間が、君の3日に相当するような感覚。

全ての出来事について不思議に思う人物と、当たり前だと言われていることはそのまま受け入れる人物との時間の流れも違うだろう。

その一つ一つ理解するという行為を繰り返していくうちに、全ての現象の理解が繋がっていき、原子力発電のように凄まじいスピード、凄まじいエネルギーに変換されることもあろう。時間が停滞している時期を超えて、凄まじい加速で流れ出す時間。

時間とは、何なのだろう。

秒針は見える。でも時間は見えない。

時間が流れるというが、どこに流れているのか。

事が起こって、思い出になって、その間に時間があったことに気づくのか。

何かを思いついて、計画を立てて、それをカタチにしていく事で時間を感じるのか。

作品ってのは、時間なのか。

このブログを書いた1時間が俺の1時間のカタチとして、具現化されている。

貯金ってわかりやすいが、貯時間というものもあるだろう。

俺の1時間をブログというカタチに残し、それが溜まっていく。

相対的に、時間を貯蓄しているのではなかろうか。

作業を消費するのではなく、貯めていく。

社会から、提示されたモノやコトを消費するだけでは虚しい。

その虚しさに抗うためだけに、少しの傷跡を残すようにブログを綴る。

本来、何の意味もない自己満足かもしれない。

でも、虚しさに溺れないようにただ消費するだけの生活から脱却するために

 

生きねば。